2009年7月29日水曜日

続 ピナ・バウシュ

先日の山本淳先生のピナ・バウシュの記事を読んで、共感された方、改めてピナ・バウシュの舞台を見たいと思った方など、たくさんいらっしゃるのではないでしょうか。

そこで、スペイン映画の「トーク・トゥ・ハー」。
この冒頭にピナ・バウシュの代表作「カフェ・ミュラー」の一部が挿入されていますのでご紹介しましょう。

2009年7月24日金曜日

ベルリンの壁 in 東京

2009年8月15日〜8月23日、世界陸上がドイツ・ベルリンにあるベルリン・オリンピックスタジアムで行われます。

それに先立ち、今年4月20日より、サカスフロントでベルリンの壁(レプリカ)展示中!

また、世界陸上ベルリン大会を独占生中継するTBS本社前とサカス広場の間には、本物のベルリンの壁展示されています。



(写真はベルリンの壁博物館前)

この夏、ドイツに行けない方は、東京でベルリンを感じてみてはいかがでしょうか?

2009年7月19日日曜日

「バーダー・マインホフ 理想の果てに」

2009年アカデミー賞外国語映画賞ノミネート作品である『バーダー・マインホフ 理想の果てに(Der Baader-Meinhof-Komplex)』が、7月25日から公開されます。公式サイトはこちら

主演はマルティナ・ゲデック。彼女は『善き人のためのソナタ』、『素粒子』にも出演しています。

さらにおなじみモーリッツ・ブライプトロイ。彼はスピルバーグ監督の作品『ミュンヘン』でもバーダー役を演じています。その他、出演作品には『ラン・ローラ・ラン』や『es(エス)』、『素粒子』などがあります。

そしてそして、またしてもブルーノ・ガンツ。先日の『愛を読むひと』でも、(映画全体の評価は別として)ご活躍でした。

あとは、HPのキャストでは紹介されていませんが、アレクサンドラ・マリア・ララ。『トンネル』、『ヒトラー~最後の12日間~』、『愛を読むひと』にも出ています。

ちなみに『バーダー・マインホフ 理想の果てに』はドイツではすでに昨年公開され、今ではDVDも出ています。

『愛を読むひと』では、わかってはいても、英語が話されていることに違和感を覚えてしまいました・・・。その意味ではこちらはぐっとストーリーに入り込めるのではないでしょうか。

2009年7月16日木曜日

逃走の鍵としての「肌触り」

                                          山本 淳
 ピナ・バウシュが亡くなった。今からちょうど10年前、1999年の日本公演の折、方向音痴のぼくは間違った階段を下りたらしく、ドアを開けたとたん人気のないひっそりとした空間に迷い出た。ピナ・バウシュがひとり立っていた。目が合い、思わず会釈をすると、あの黒く飾り気のないドレスを身にまとった彼女は、はにかんだような笑みを浮かべた。幽霊みたいだ、とぼくは思ったものだ。考えてみれば、彼女の舞台も、彼女の存在そのものも、何だか生と死の境界をさまよっているようなところがあったっけ。だから、あまり悲しいという実感がわかない。これからもこんな感覚が続くのだろう。


 ブログを管理してくれているMさんから、ピナ・バウシュについて何か書いてほしいと頼まれたが、雑事に追われてままならない。以前、文学好きの学生が主催する『月蛙』というミニコミ誌から依頼を受けて短文を書いたことがあるので、それを再録することをお許しいただきたい(再録にあたって、一部手を加えた)。


***** ***** ***** ***** ***** ***** *****
 今回(1999年5 / 6月)のピナ・バウシュとヴッパータール舞踊団日本公演では、「ヴィクトール(Victor)」と「フェンスタープッツァー(Der Fensterputzer)」をみた。
 ピナ・バウシュの舞台を体験した後にいつも思うことだが、このタンツテアーターという独特の身体言語で展開されるパフォーマンスを、いわゆる「言語」で改めて捉え直すことにいったいどういう意味があるのだろうか。彼女の舞台は常に、いわゆる「言語」による分節化、固定化をすり抜けてしまう。あるいはそこから逃げてしまう。いや、もう少し正確に言えば、「言語」で追いかけていってみると、「言語」で追いかけることの意味それ自体を問われるはめに陥る。
  「ヴィクトール」(1986年初演)は、いわゆる「世界都市シリーズ」の最初の作品であり、「フェンスタープッツァー」(1997年初演)も、それに連なる作品の一つである。これらの作品はいずれも、ピナとダンサーたちがそのつどその町(「ヴィクトール」の場合はローマ、「フェンスタープッツァー」の時は中国への返還を直前にした香港)に何週間か滞在し、その際の観察や経験に基づいて様々な断片的シーンを構成し、それをコラージュすることでできあがっている。当然のことながら作品には、ピナやダンサーたちの町に対する印象、個人的体験、あるいはその町々の具体的な風景が入り込んでいるが、それらは異化された独特な身振り、パフォーマンスへと転換される中で、個人的な経験のレベルを越え、その町や、町に暮らす人々の生活や歴史をも突き抜け、人間と社会、人間と歴史との関係にかかわる、ある種の普遍性へとつながっている。
 上述の(きわめておおざっぱな、しかしたとえもっと綿密に言語化したとしても事情は同じであろうが)説明に欠けているのは、「身体感覚」あるいは「肌触り」である。ピナ・バウシュの舞台をみていると、そこここで、この「肌触り」を体験する。たとえば「ヴィクトール」の中にある「女が人間噴水になって、男がそれで顔や身体を洗う」という印象的な場面。「ヴィクトール」は上でも述べたように、ピナとダンサーたちがローマに滞在したときの体験に基づくさまざまな断片的シーンのコラージュとなっているが、「人間噴水」もその一つである。作品を作り上げる際に、まずダンサーたちへの質問から始めるというピナ・バウシュの作業方法は、すでによく知られているが、このシーンは、ローマ滞在の印象を尋ねられたダンサーのひとり市田京美が、「噴水がおもしろかった」と答えたところから生まれたらしい。きっかけは、そのように他愛もないものだし、シーン自体もちょっとしたギャグのようなものなのだが、これが静まりかえった会場で延々と、ほとんど水攻めの拷問のように続けられるうちに、次第に様相が変化してくる。どう表現したらいいかよくわからないが、私の場合、幼いころ川で溺れかけ、水の音しか聞こえてこない世界で、空気の代わりに水をがぼがぼ吸い込みながら、ほとんど気を失いかけたときのような感覚を思い出した。あるいは体験した。そこには人間と水との直接的な接触の感覚が存在したのだ。

 ピナ・バウシュのパフォーマンスを、モダン・バレエやモダン・ダンスの歴史的文脈の中に、いわゆる「言語」を用いて位置づけることは、それほど難しいことではないだろう。たとえば、教科書的に復習すれば次のようになる。ジョージ・バランシンやマース・カニングハムのモダニズムは、物語性、装飾性を捨て去り人間の身体の幾何学的な運動をつきつめている。(マーサ・グラハムやモーリス・ベジャールはその動きの中でもどこか象徴的なものを抱えているが。)とりわけ70-80年代になって出てきたポスト・モダニズムの動きは、モダニズムがそぎ落としてきた物語性や装飾性等の様々な要素を記号として引用し、カラフルなコラージュをつくってみせる。ピナ・バウシュはその重要な例である。ウィリアム・フォーサイスは、物語的な象徴言語を改めて持ってくるというのではなく、モダニズムの原点である幾何学的抽象にもどった上で、それを内側から突き崩し、多形化することで、さらにその次の次元を切り開こうとする、等々。
 この文脈の中にあって、しかもその文脈に完全に取り込まれることなく、ピナ・バウシュのパフォーマンスを生き延びさせ、あるいはきわだたせているものがあるとしたら、それは上述の「身体感覚」であり「肌触り」である。言い換えれば、「もの」との「直接的な接触の感覚」である。「もの」と書いたが、それは水のような「もの」としての「自然」だけではなく、「もの」としての「社会」「歴史」「言語」ということまで含んでいる。 
 「私に興味があるのは、ひとがどう動くかではなく、何がひとを動かすのか、ということ。」ピナ・バウシュはそう語っているが、コリオグラファーとしての彼女の目は、ひとの動きの根拠を、人間とそれをとりまく「もの」、すなわち「自然」「社会」「歴史」「言語」との相互関係の中に探ろうとしている。そして人間と「もの」との関係を、ある「身体感覚」あるいは「肌触り」を伴った独特の異化的身振りで、パフォーマンスとして観客の前に示すのである。
 すでに書いたように、ピナ・バウシュは作品を作り上げる際、まずダンサーたちへの問いかけから始める。ダンサーたちは自分たちの経験や記憶から何かを引き出し、それを皆の前に示す。ピナがさらに執拗なまでに問いかけを行い、ダンサーたちも相互に観察・分析を繰り返す中で次第に場面ができあがっていく。そこには、人間と、それを取り巻く「もの」としての「自然」「社会」「歴史」「言語」との相互関係が異化され、ある「身体感覚」「肌触り」を伴って立ち現れてくる。そうしてできあがったさまざまなシーンが、観客の前にカラフルにコラージュされるのである。その意味でピナ・バウシュのタンツテアーターは、自己目的的な内面の表出を図る表現主義とは異なる。
 さて、ピナ・バウシュのパフォーマンスをきわだたせているのは「身体感覚」であり「肌触り」であり、「もの」との「直接的な接触の感覚」であると書いたが、むろんそれは、そういった直接的な身体感覚が「言語」の限界を越え、「言語」の抱える問題を解決に導くなどという安易な話にはつながらない。確かに鍵は「身体」であるが、それは「身体」が、「言語」が固定化し、分節化し、制御しようしている対象であると同時に、その「身体」を用いた表現が、それ自身一つの「言語」になるという、その両義性の故である。バレエにせよ、ダンスにせよ、パフォーマンスにせよ、身体を使って何かを表現したり、示したりすることは、すでにそれ自体一つの「言語行為」であり、そしてその「言語」行為が固定化し、分節化し、制御しようとしているのが、その「身体」そのものなのである。
 はじめに、ピナ・バウシュの舞台は、常にいわゆる「言語」による分節化、固定化をすり抜けてしまうと書いたが、それは彼女の「身体表現」も一つの「言語」であることを前提としている。一つの「言語」であるピナ・バウシュの「身体表現」は、当然のことながら「身体」そのものを固定化し、分節化し、制御しようとする。しかし固定化し、分節化し、制御しようとしたその時点で、「身体」は常に動き続け変化し続ける現実の「身体」ではなくなってしまう。動き続け変化し続ける現実の「身体」を舞台上に現象させるには、そういう「言語」による固定化、分節化、制御からすり抜け、逃走しなければならない。(それをハイナー・ミュラーの言葉を借りて「ダンスの逃走線」と言ってもよい。)その鍵となるのが「身体」そのものが持つ「身体感覚」であり、「肌触り」であり、「もの」との「直接的な接触の感覚」なのである。
 ピナ・バウシュのパフォーマンスを「言語」で追いかけていってみると、「言語」で追いかけることの意味それ自体を問われるはめに陥るとも書いたが、それは上述の問題が、実はいわゆる「言語」そのものが抱える問題でもあるからである。自らのパフォーマンスが、一つの言語として「身体」を固定化し、制御しようとするのを徹底的に意識しながら、なおかつ常にそこからのすり抜け、逃走を図る。そして「身体」の生成と変化の過程そのものを舞台上にパフォーマンスとして生じさせ、観客をもその出来事に巻き込む。それがピナ・バウシュの舞台なのだ。


「乾杯の歌」

梅雨があけて、夏!らしい気候になりました。

そこで・・・少し前から気になっている某ビール会社のCM。

画面右下に「乾杯の歌 ドイツ民謡」とある。

確かに出演者の音楽家たちは「Ein Prosit~♪」と歌っているのである。

なのにビールは「ザ・マ〇ター」。

・・・それはいいとして、せっかくなので、歌詞を紹介しましょう。













Ein Prosit, ein Prosit der Gemütlichkeit,

ein Prosit, ein Prosit der Gemütlichkeit!

Eins, zwei, drei – Gsuffa!

(Schenkt ein, trinkt aus, schenkt ein, trinkt aus!

というパターンもあるようです)

2009年7月15日水曜日

京都外国語大学 全日本学生ドイツ語弁論大会実施要項

第10回 全日本学生ドイツ語弁論大会実施要項

日時:2009年12月5日(土) 午後1時より
場所:京都外国語大学 171教室
主催:京都外国語大学
後援:大阪・神戸ドイツ連邦共和国総領事館、オーストリア大使館、ゲーテ・インスティトゥート大阪、在日ドイツ商工会議所、毎日新聞、京都日独協会
協賛:ルフトハンザドイツ航空、(株)三修社、マンハイム大学、チューリッヒ大学、ザルツブルク大学

出場資格:大学・短期大学在籍者で、以下のいずれかに該当する者は除く。
1)ドイツ語を母語とする者
2)ドイツ語で授業を行う教育機関(小・中・高等学校)に1年以上通った者、もしくはドイツ語圏での在住が1年を越える者
★第三者による証明書の提出を求めることがある。



演題:自由(但し、本人によって作成された未発表のものに限る)
制限時間:5分間
申込締切:11月7日(土)必着(メール、ファックス、郵送いずれも可)
*氏名(漢字とローマ字)、年齢、住所、緊急連絡先(携帯電話、メールアドレス等)、所属大学名・学部・学科・学年、演題(日本語とドイツ語)を明記し、弁論要旨(日本語1000字)を提出すること。
*応募者多数の場合は、原稿審査等により出場者の人数を制限することがある。
選考方法:演説の内容、表現力、発音、抑揚、暗記力等により、弁論の結果を総合して入賞者を決定する。
審査員(予定):大阪・神戸ドイツ連邦共和国総領事館(2名)、京都ドイツ文化センター(1名)、大阪ドイツ文化センター(1名)
賞品:ヨーロッパ往復航空券(協力:ルフトハンザドイツ航空)、語学研修(ドイツ文化センター)、図書券など

申込書類送付先/お問い合わせ
〒615−8558 京都市右京区西院笠目町6
京都外国語大学ドイツ語学科(郵送の場合は「弁論大会応募書類在中」と朱書きしてください。)
電話(075)322-6157・6155 FAX(075)322-6245

挑戦してみてはいかがでしょう???

2009年7月9日木曜日

「クヌート」

このブログでも紹介してきたクヌートが映画になりました!
その名も「クヌート(Knut und seine Freunde)」

2007年の夏にベルリン動物園を訪れたときには、こんなチビッコ・クヌートの看板の先に・・・

すっかり大きくなったクヌートがデン!と横たわっていました;)


・・・が、映画では、生まれたての真っ白い、ぬいぐるみのようなクヌートの姿をたっぷり楽しむことができるでしょう。また、2008年9月に残念ながらお亡くなりになった飼育員、トーマスさんとじゃれあう姿も見られるはずです。

公式サイトはこちら
7月25日(土)より、全国ロードショー